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たった一度の人生を悔いなく生きるために大切なこと
著 者
青山俊董
定 価
  本体1000円+税
発 行
  2017.9
ISBN
  978-4-7593-1552-3
たった一度の人生を悔いなく生きるために大切なこと
84歳尼僧大教師、渾身の教え。苦しみや辛い体験は幸せの糧に。

なぜ、人は悩み苦しむのか。その原因と根本的な解決方法を、日常生活の中から具体例をあげてわかりやすく説明します。さらに、人間として成長し本物の幸せをつかむための道筋が、仏教の深い教えにそって示されています。1項目を短く区切ってあるので、どこからでも読み始められるます。


1章 自分について
    *誰でも自分がいちばん可愛い
    *トマトがトマトであるかぎりほんもの
    *今の私は過去の総決算、未来の出発点(など10項目)

2章 「もう一人の私」について
    *わがままの角に気づく
    *私が変われば相手が変わる
    *逃げだしたくなる問題を歓迎する(など9項目)

3章 自分育てについて
    *この一瞬を逃したら出会えない
    *仕事は仕事から学べ
    *結果よりも今の一歩に最善を尽くす(など12項目)

4章 心の持ち方について
    *からっぽにしなければ入らない
    *姿・形を調えれば、心も調う
    *どこで、何を授かっても「ようこそ」と受けて立つ(など14項目)

5章 ゆたかさについて
    *金と名誉は凡夫の餌
    *心に響くひたむきな友情
    *どんなに小さくても、善いことは善いこと(など11項目)

6章 苦しみについて
    *失敗にこだわる心が人間を駄目にする
    *いちばんつらいことが真実の世界への入り口
    *ゆきづまったら、棺桶の中に入ってみよ(など11項目)

7章 人生について
    *人生はいろいろあるからいい
    *雨の日、晴れの日、すべてが人生の道具だて
    *終わりの節目があるのはいいこと(など12項目)

8章 生と死について
    *食欲があるのは、当たり前ではない
    *病むたびに新しい世界が開ける
    *死を忘れると、生もぼける(など10項目)

9章 仏法について
    *泥んこの人間世界だからこその仏法
    *バラの木にバラの花が咲く不思議
    *正しい宗教、正しい坐禅の見分け方(など14項目)

10章 葬式について
    *仏教は本来、葬式とも先祖供養とも無縁
    *葬式は、仏の弟子になる得度式
    *戒名をいただくとは、仏戒にしたがって生きること(など6項目)


トマトよりメロンのほうが上等と勝手に序列をつくり、自分はトマトなんだという劣等感と、トマトなんだけれどメロンに見せたいという自愛の思いから背伸びする。肩に力を入れる。その意識過剰がじゃまをし、自由な動きがとれず、トマトの働きさえも発揮できないまま疲れはて、もっとみじめな思いにさいなまれる。
自分のはからいを捨てて、トマトがトマトにおちつく。それは向上するのをあきらめて居直るのとはちがう。比較を絶して、ふたつとない生命である私、ゆったりと私が私におちついていることができるということであり、これがほんものということであろう。肩の力を抜いて、生地で生きるということであろう。

知識なくしてそのものを深く見ることはできない。しかし知識をはずさねば、そのものの真実の姿に出会うことはできない。深く学んで、学んだことを全部捨て、そのものとマッサラな私とが、ジカに対決することの大切さを思う。だれかの目を借りたり、商人のつけた値段というメガネを通して見るということは、すでに美を見る目としては、二次的に落ちた世界なのである。さらには人を見るときも、学歴とか肩書きとか財産のあるなしというモノサシの一切を捨て、真っ裸の一個の人間として見ることの大切さを忘れてはならないと思う。

「意思を持たない機会相手に、あなたの思うようになる世界ばかりへ逃げこんでいては、あなたという人間の成長はないことになりますよ。大変かもしれないけれど、意思を持った相手、文句をいう相手、あなたのいうことをきかない方、あなたが時には負けたり、ゆずったりせねばおさまらない方を持つということも、あなたという人間性を育てる上ではとても大切なことだと思いますよ」

つまらんこととわかりつつも、無性に腹が立つときがある。愚痴をこぼしたくなるときがある。そういうとき、私の中の「もう一人の私」のささやきが聞こえてくる。
「そんなに腹を立ててもしょうがないんじゃない?」
「愚痴をこぼしてみたって、相手にも暗い思いをさせ、無駄な時間を費やさせるだけで、何の解決にもならないんじゃない?」
これは私の中のもう一人の醒めた私のささやきである。この自己こそよりどころであり、この自己を、よい馬に調教するように育てよ、という。

私はつねづね人のありようを、空気のようでありたいと願っている。一刻もなくてはおれない大切なものなのに、その存在はまったく忘れさられている。いや、もっとも大切なものであるからこそ、その存在のありようも、もっともあらまほしき姿で存在するのであろう。
空気が自己主張し、一息ひといき吸うごとに空気を吸っていることが意識にのぼるようでは、くたびれるのを通りこして頭がおかしくなってしまうであろう。

からっぽだから水が入り、花が入る。からっぽだから料理が盛れる。からっぽだから道具が入る。からっぽだからお食事もおいしくいただける。
前の滓が詰まっている器には何も入らず、いっぱい掴んでいる手には、何も持つことができないように、私の考えを捨て切って、からっぽにならなければ、どんなすばらしいお話も、みんなこぼれおちてしまう。

くやしいとき、腹が立つとき、そこで目尻をつりあげて怒りわめくか、一呼吸おいて腹をすえてニコっとするかで、そこに開ける世界はまったくちがったものとなる。目を怒らしてわめく世界からは、自他の心をいっそう傷つけるようなトゲトゲした世界しか展開しない。ニコッと転ずれば、ニコッからは明るい世界が広がっていく。

「悲しみ苦しみ、嫌なことなど、あなたの過去のマイナスは泥です。泥はそのままではあくまでも泥にすぎません。素材であって仏ではありません。
仏をつくるためにはつくり方を学ばねばなりません。光に導かれ先達たちの教えに導かれて精進しつづけることにより、泥はやがて仏となってゆくでしょう。泥を肥料にたとえるなら、肥料負けしないように、よくよく栄養として消化することができれば、やがてみごとな花を咲かせることができましょう」

一つのことに終わりという節目があることはすばらしいことだ。
「また」という時が許されない時点に立たされるということは、いいことだ。
片づこうが片づくまいが、否と応とにかかわらず、とにかく時がくれば終止符が打たれ、やりなおしも修正する機会も許されないまま、やりそこないの傷は傷のまま、全部私の人生のそれぞれのページに記された一冊を背負って旅立たねばならない。
別れの、旅立ちの、「また」という時の許されない最後の一点に立ってはじめて、全体の展望ができ、そこでの生活の意味がわかり、したがって、そこでの毎日毎時間のあるべきようもわかってくる。

生と死は背中あわせ。死は、病人とか、老人とかいう条件を無視して、幼かろうが、健康であろうが、無差別におそいかかる。しかし人々は、人為的に、死刑とか、癌とかいうような死に至る病を突きつけられないかぎり、本気にならない。
逃げ場のない形で死に向かいあうことで、ようやく本気になり、聞く耳も開け、アンテナも立てることができる。かくてはじめて、教えにも人にも出会うことができ、人生の意味、ほんとうに生きるとはどういうことかを問うことができるのである。

読み返すたびに、一つひとつの教えが新たな響きをもって心に迫ってきます。順風満帆のとき、特別な問題を抱えていないとき、あるいは、壁の前で立ちつくすときにも、きっと、涼しい風が吹き渡るような気づきや目覚めを促してくれることでしょう。「大切な話は、耳なりがするほど繰り返し聞け」(あとがきより)。人間として成長するために、人生を深く生きるために、ぜひ、座右の書としてお役立てください。


青山 俊董(あおやま しゅんどう)

1933年、愛知県に生まれる。5歳で長野県塩尻市の曹洞宗無量寺に入門。15歳で得度し愛知専門尼僧堂にて修行。その後、駒沢大学仏教学部・同大学大学院修了後、曹洞宗教化研修所を経て、64年より愛知専門尼僧堂に勤務。76年より堂長、84年より特別尼僧堂堂長および正法寺住職、無量寺住職を兼ねる。現在は東堂。後進の育成はもとより、参禅指導、講演、執筆等で活躍のほか、茶道・華道(教授)を通して、わかりやすい禅の普及に努めている。2006年、女性では二人目の仏教伝道功労賞を受賞。2009年、曹洞宗の僧階「大教師」に尼僧として初めて昇任。
著書には『新・美しき人に』(ぱんたか)、『茶禅閑話――松籟に聴く』(中山書房仏書林)、『あなたに贈ることばの花束』(春秋社)、『泥があるから、花が咲く』(幻冬舎)、『一度きりの人生だから――もう一人の私への旅』『あなたなら、やれる――禅のまなざし』『今、ここから始めよう』(以上、海竜社)ほか多数がある。





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